約5年前に修士課程を修了した。
今振り返ると、自分自身がどういう傾向があるのかすごく顕れていたんだなと思う。
論文執筆の各段階で、やらねばならぬことを気にかけつつ、それに集中するのはいつも土壇場のギリギリであった。
心の隅には常にもやもやがあり、でも真正面からは向き合えず、それを認めるのも難しく、何とも苦しい日々だったな。
その後も流れに身を任せて進んでいって、本当に最近まで苦しさを抱いていた。
しかし最近読んだ本で、その原因と対策がわかり、1日の過ごし方も変わった。
著者の平岡俊晴さんにはただ感謝です。
修士課程時代から続く苦しみとは何だったんだろう。
以下、平岡さんの著書の一節を用いて考えています。
思えば「 身口意(しんくい)の一致で宝の扉は開かれる」(空海が広めた密教の教え)でいうところの、「身」がとにかくついていかなかったのが苦しみの要因といえる。
身・・・やっていること。行動していること。
口・・・言っていること。言葉にしている思考。
意・・・想っていること。心で意識していること。
空海はこの3つを一致させると、あらゆる願望は実現すると説いているとのことですが、実際にはこの身口意はバラバラで一致していないことが多い。というか私はずっと「身」が伴わなかった。
潜在意識化に根付いている「私」が無意識に行動してしまう習慣やすぐに頭をよぎる思考というものに、意識を向けることができなかったから。
やるべき、やらなくてはならない、もちろん必要性も理解していたはずではあるが、追い込まれないとすすまなかった。
何が変わったかというと、シンプルに日々「自分に何を与えられるか」を自らに問いかけることが、継続してできるようになったことを挙げることができる。
その日に私は自分に何を与えられた?
例えば体に良いものを適量摂れたか、与えられたかという問いが常に頭にあると、お腹が空いてるとき、メニューを決めるとき、食べているとき意識化され自分にとって本意の意思決定、選択することができる。
なりたい姿に必要な知識を与えられたか、必要な実績のための時間を与えられたか、ネットサーフィン、マンガのだら見が自分に与えるべきことなのか、時間なのか、
自分を大切にするということは何を自身に与えているか、それを選び取っているか、その視点を、自分に問うことで意識化できるということを知った。
すると驚くほど「身」であるやっていること、行動が変わったんです。
問いが自らを律してくれているともいえるけれど、いずれこの問いも無意識化していけるでしょう。
身口意が一致していると心が軽いし、やっていることが楽しくなる。
今から5年前にさかのぼる、
修士課程から続いていた、そして常に心のどこかで思っていた「このままじゃいかん感」からサラバです!
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